イラク 面積
9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版) (1961年 - 1970年) が勃発した。, 1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。, 1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 国土面積; 項目名 値 出典 順位 偏差値; 面積: 438,317 km 2-59 / 252: 49.4: 陸地面積: … 株式会社ゆうちょ銀行および日本郵便株式会社が発行するプリペイドカード・デビットカード。国際的なクレジット決済ブランドであるVisaの加盟店で利用できる。年会費は無料で、満12歳以上(小学生を除く)のゆ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 バグダッド(人口約714万人)(2020年:cia) 4 民族 約3,887万人(2020年:cia) 3 首都. 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 (Iraq) アジア大陸西南部の共和国。メソポタミア文明の発祥の地。バビロニア、アッシリア、イランなどの古代国家が栄えた。オスマン朝の領土となり、その後イギリス委任統治領となる。一九三二年立憲君主国として独立。五八年政変により共和国となる。六九年、クーデターによりバース党政権が生まれ、七九年には同党のサダム・フセインが大統領に就任。イラン‐イラク戦争(, 『メアリー・M・ロジャース著、東真理子訳『目で見る世界の国々60 イラク』(2002・国土社)』, 『国末憲人著『イラク戦争の深淵――権力が崩壊するとき、2002~2004年』(2007・草思社)』. 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。, 1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。, 1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[注 3]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。, 1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びるハンマール湖(英語版)が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ族(英語版) (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。, イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖(英語版)である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ (Wadi al-Ghadaf) など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ (Wadi Hawran) であり、480 kmに達する。, イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。, 1921年に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。, 砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。, 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。, ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。, ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。, ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。, IMFの統計によると、2017年のGDPは1,955億ドルである。一人当たりのGDPは5,263ドルで、これは世界平均の30%を超え隣国のヨルダンを上回る水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。[1], 通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。[12], イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。, 1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。, 第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。石油危機による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった[13][14]。, 1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。, 1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。, イラクの原油生産量、単位: 万トン (United Nations Statistical Yearbook), イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。, 1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。, 1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。[15]。 ?位) 人口密度 58人/km GDP(自国通貨表示) 合計(2017年) 231兆49億 イラク・ディナール GDP(MER) 合計(2017年… 2018年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り[10]。, 2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。, クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。, イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。, エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。, シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。, ヨルダンは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。, イスラエルは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。, イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境 (北緯33度22分 東経38度47分 / 北緯33.367度 東経38.783度 / 33.367; 38.783) である。北端はトルコとの国境 (北緯37度23分 東経42度47分 / 北緯37.383度 東経42.783度 / 37.383; 42.783) で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口 (北緯29度53分 東経48度39分 / 北緯29.883度 東経48.650度 / 29.883; 48.650)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 (北緯29度03分 東経46度25分 / 北緯29.050度 東経46.417度 / 29.050; 46.417) の一部である。, イラクの地形は3つに大別できる。 1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。2 本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。, ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のen:Cheekha Dar(3611 m)[注 4]もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 約43.83万平方キロメートル(日本の約1.2倍)(2020年:cia) 2 人口. 人å£10ä¸äººãããã®äº¤éäºæ æ»è ... 2015å¹´7æ30æ¥ OECDçºè¡¨ã®çµ±è¨ã追å ã, æ¬ãµã¤ãå ã®ç»åãè¨äºãªã©ã®ç¡æè»¢è¼ãç¦ãã¾ããæ¬ãµã¤ãã¸ã®ãªã³ã¯ã¯ååèªç±ã§ãã, æ¬ãµã¤ãå ã§ã¯æ£ç¢ºãªãã¼ã¿ã»è¨è¿°ã®è¨è¼ã«åªãã¦ããã¾ããã誤ããå«ã¾ãªããã¨ãä¿è¨¼ãããã®ã§ã¯ããã¾ããã, æ¬ãµã¤ãã®æ å ±ã«ããçããå¦ä½ãªãæå®³ã«ã¤ãã¦ãã彿¹ã¯è²¬ä»»ãè² ãããã¾ãã. バグダード(アラビア語: بغداد /ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。 また、バグダード県の県都でもある。 アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。 2020年の人口はおよそ714.4万人 。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された (カイロ会議(英語版))。, 1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。, en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版) (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。, 1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版) (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。, ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。, 一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油(英語版)を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。, 1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役(英語版)で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。, 1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバード(英語版)でクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。, 1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。, 1955年、中東条約機構 (METO) に加盟。 イラク - 森林面積(土地面積の%) 1.9 (%) 、年度: 2016 森林区域は、生産的かどうかに関わらず、原位置で、少なくとも5メートルの一連の天然の木、もしくは植えられた木の下の土地です。� 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 イラク 日本 両国の差; 人口: 3481万人(2014年) 1億2711万人(2015年) 日本はイラクの約3.7倍 国土面積: 43万7400 km²: 37万7972 km²: イラクは日本の約1.2倍 首都: バグダード: 東京: 最大都市: バグダード: 東京: 政体: 議院内閣制: 議院内閣制: 公用語: アラビア語およびクルド語 まずは大まかな場所から行きましょう!日本との位置関係です。 ご存知「中東」と呼ばれるエリアです。イランとイラクは隣同士なんですね! アフガニスタン、パキスタンに隣接している方がイラン(音で) そうじゃない方がイラクと覚えておくと覚えやすいです。 さらに拡大したのがこちら! まず面積の違いに目が行きますね! イラクの首都は「バグダッド」、イランの首都は「テヘラン」です。 ニュースなどでよく目にする名 … イラク共和国(イラクきょうわこく、アラビア語: الجمهورية العراقية、クルド語: كۆماری عێراق)、通称イラクは、中東の連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。, 正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。, 公式の英語表記は、Republic of Iraq (リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Irak。, イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。, 現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。, メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。, 西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。, 8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。, 10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。, 1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。, 16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。, en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。, 1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。, 18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。, 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。, 1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社(英語版)の前身) を立ち上げた。, 第一次世界大戦では、クートの戦い (1915年12月7日 - 1916年4月29日) でクート・エル・アマラが陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。, 1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッドが陥落した(英語版)。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。, 1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 (ムドロス休戦協定)。パリ講和会議 (1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するen:Long–Bérenger Oil Agreementを締結。サン・レモ会議(英語版) (1920年4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San Remo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 (1919年5月19日 - 1922年7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディスタン) を放棄させようとしたが、批准されなかった (モースル問題(英語版))。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。, イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。, イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。, イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。, バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設された。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された[16](バグダード=バスラ高速鉄道路線)。, 一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 (うち65万台が乗用車) に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。, イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。, 輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。, 貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。, イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。, 国連の統計によれば、住民はアラブ人が79 %、クルド人16 %、アッシリア人3 %、トルコマン人 (テュルク系) 2 %である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。, かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ(英語版)と呼ばれる町に定住している。, イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。, マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。, 南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。, また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。, アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語 (アッシリア語) なども少数ながら使われている。, 書き言葉としてのアラビア語 (フスハー) は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 (アーンミーヤ) は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。, イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。, 通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる[17]。, イスラム教が国民の 99 %を占め、次いでキリスト教 0.8 %、ヒンドゥー教 、その他 (0.2 % 以下) である。イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %、スンナ派 32 - 37 % である[18]。, キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と[19]、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている[20]。, 全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。, スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。, 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。, バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(英語版) (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。, ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。, イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(英語版) (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。, ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。, 1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。, サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。, ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。, イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。, 伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、ヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。, ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。, カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。, また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム (マカーム・アル=イラーキー) と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。, 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 西アジアに位置する国。正式名称はイラク共和国Al-Jumhūrīyah al-‘Irāqīyah、英語ではRepublic of Iraqという。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、さらに南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部がペルシア湾(アラビア湾)に臨む。面積43万8317平方キロメートル、人口2899万3000(2007推定)、人口密度は1平方キロメートル当り66人。首都はバグダード。, 古くはメソポタミアとよばれ、肥沃(ひよく)で広大なティグリス、ユーフラテス両川流域を主要部とする農業国であったが、20世紀になり豊かな石油資源を背景に工業化に積極的に取り組むようになった。政治的には1958年の革命(イラク革命)で王制から共和制に転換したが政情不安が続いた。しかし、1968年のクーデターで生まれたバース党のバクル政権は、1970年代後半から比較的安定した基盤を得た。1979年にはサダム・フセインが大統領に就任し、イラン・イラク戦争(1980~88)、湾岸危機・湾岸戦争(1990~91)を経て長期政権を維持したが、2003年のイラク戦争でアメリカ・イギリス両軍の攻撃を受け、フセイン政権は崩壊、連合国暫定当局(CPA)から暫定政府、移行政府による統治機関を経て、新政府が2006年に発足した。, イラクは大別して三つの地域に分けられる。国土の中央部を流れるティグリス、ユーフラテス両川流域、北から北東を限るクルディスターン地方の山岳地域、ならびに西部、南西部を占めるシリア・アラビア台地の砂漠地域である。なかでもティグリス、ユーフラテス両川流域のメソポタミア平原はイラク総面積の82%を占め、イラクの自然環境のなかでもっとも重要な意味をもっている。この両川流域は、ティグリス川沿岸のサマッラー、ユーフラテス川沿岸のヒートを結ぶ線でさらに上流域と下流域に分けられる。上流域は標高500メートル前後の起伏の多いジャジーラ丘陵となり、流出口のない無数のワジ(涸(か)れ谷)のつくった小盆地を形成している。下流域は沖積平野となり、両川からの灌漑(かんがい)によりイラクの農業の中心地帯となっている。ティグリス、ユーフラテス両川が合流したあとのシャッタル・アラブ川沿岸はアシの生い茂る沼沢地帯を形成している。クルディスターン山地はイラン、トルコの国境に接し、イランのザーグロス山脈に連なる急峻(きゅうしゅん)な褶曲(しゅうきょく)山脈で、標高3000メートルを超える高山もみられる。ティグリス川の本流やその支流の大ザーブ川、小ザーブ川などが流下し、大小ザーブ川の谷が貫く平原一帯が古代のアッシリアの地である。イラクの西部、南西部を占める砂漠地帯は、ユーフラテス川下流低地からしだいに高くなり、標高1000メートルまでの高原を形成している。北部がシリア砂漠の延長であり、南部のヒジャーラ砂漠はサウジアラビアのネフド砂漠の北縁となっている。砂漠地帯にはメソポタミア平原に向かって多くのワジが刻まれ、最大のワジ・ハウラーンは全長480キロメートルに達する。, 気候は、低地では5月~10月の乾燥し暑さの厳しい夏と、12月~3月の比較的温暖で湿潤な冬との対照的な二つの季節がある。山地では冬は寒さが厳しい。バグダードの年平均気温は22℃であるが、7月の平均気温は34.2℃で、日中は日陰でも43℃に達する。このため住民は暑さを逃れるため昼間は地下室で過ごす。最低平均気温は1月の8.5℃で気温差は大きい。1921年7月8日バスラで観測された58.8℃は世界最高記録である。降水量は、クルディスターン山地では年間400ミリメートルを超えるが、南西部へ向かうにつれてしだいに減じ、バグダードでは150ミリメートル前後にすぎない。砂漠地帯ではさらに乾燥し、農耕の不可能な不毛の地となる。ティグリス、ユーフラテス両川をはじめとしてその大小の支流は、クルディスターン山地やトルコの山地、高原の降水を集め、豊かな水量に恵まれている。, メソポタミアは世界最古の文明を擁した地である。紀元前3000年、シュメールは自らの文字をもつ独自の文化を築いていた。続いてユーフラテス川流域にバビロニア王国、新バビロニア王国が、ティグリス上流にアッシリア王国が興って栄えた。しかし、前539年イランのアケメネス朝ペルシアが征服して以後、イラクはアレクサンドロス大王、パルティア、ササン朝ペルシアなど外部勢力の侵入、支配を受けた。7世紀なかばイスラム教がアラビア半島におこり、イスラム教徒団はイラクを支配していたササン朝軍を破り新時代を開いた。ウマイヤ朝時代にはイスラム帝国の中心はシリアに置かれたが、749年からアッバース朝時代が始まると、首都はイラクのクーファ、そしてバグダードに置かれ、唐の長安、ビザンティン帝国のコンスタンティノープルと並ぶ繁栄を享受した。その後この王朝はしだいに勢力を失い、イラン、中央アジア、エジプト、北アフリカに続々と独立政権ができ、経済上の中心もエジプトに奪われることになった。1258年アッバース朝はモンゴル軍に滅ぼされ、バグダードは殺戮(さつりく)と破壊によって荒廃した。さらに14世紀末にティームールの率いるモンゴル軍が攻め寄せ、生命線ともいえる灌漑施設を破壊した。1534年から第一次世界大戦に至るまで約400年の間、イラクはオスマン・トルコの属州としてその支配下に置かれた。その間トルコ軍とサファビー朝のイラン軍との戦いの戦場となることも多かった。, 第一次世界大戦の際にはトルコがドイツ、オーストラリア側について参戦し、イギリス・インド軍がバスラ付近に上陸、1918年トルコを制圧しイラクの大部分を占領した。このころ国内では民族運動が高まり、多くの地域で反乱が生じた。1920年サン・レモ会議でイラクの委任統治権を認められたイギリスは、メッカのハーシム家のファイサルを国王として迎え委任統治を実施した。ファイサル国王はその後たびたびイギリスとの条約を改定し、独立への歩を進め、1932年国際連盟に加入して念願の独立を果たした。第二次世界大戦そして戦後の混乱ののち、石油収入で国民経済も潤い始めた1953年、若いファイサル2世が即位した。国王の完全な支持のもとでヌーリー・アッサイードが首相として独裁的な敏腕を振るい、政局も安定するかに思われた。しかし1958年7月、アブドゥル・カーリム・カセム准将の率いる軍事クーデターが成功し、国王、皇太子、多くの皇族と首相らが殺害され共和国政権が樹立された。, 1958年クーデターで君主制から共和制に変わったイラクのカセム政権は、バグダード条約(後の中央条約機構CENTO(セントー))から脱退、中立主義的かつソ連寄りの政策を推進した。その後、国内では、軍部の反乱、共産党勢力の増大、クルド人の反乱、対外的には、イランとのシャッタル・アラブ川の領有権問題、クウェート併合などをめぐって、指導者層に対立が起こり政情不安が続いた。そして1963年2月バース党将校団によるクーデターでカセム政権は崩壊した。新政権の大統領アレフはまもなく軍と協力して、バース党勢力の一掃に成功した。この結果、親エジプト派が台頭し、単一政党「アラブ社会主義者連合」の設立、重要企業の国有化など一連の社会主義的政策が打ち出された。何度かの政変ののち、1968年7月穏健派のアハマッド・ハッサン・バクル将軍らによるクーデターでバース党政権が成立した。バクルが大統領に就任し、9月には暫定憲法が公布された。しかしバース党内の内紛は激しく、クーデター未遂事件は後を絶たなかった。1972年ソ連との友好協力条約に調印、ソ連の影響下に置かれたイラクと、アメリカの勢力下にあるイランとの対立という図式が定着した。こうした情勢を背景に、かねてより懸案のイラク石油会社(IPC)の国有化を断行したが、それに伴う大幅な原油生産量の減少は国民経済を圧迫した。しかし一方、西側大手石油資本との紛争は国内世論の統一と民心の結束に役だち、バクル政権の安定に寄与した。, 1973年10月、第四次中東戦争を機にパーレビ国王のイランと国交を回復し、1975年両国間の国境紛争に終止符を打った。これによりイランは、イラク領内で自治権を要求して武装決起した少数民族のクルド人への支援を停止した。同時にイラク政府軍はクルド人に総攻撃を加え、15年間にわたったクルド人の解放闘争はいちおう鎮圧された。中東諸国のなかでもっとも親ソ的だとされたイラクとソ連の関係は、1978年に入ってから悪化した。対外政策の相違やソ連一辺倒からの脱皮といった原因のほかに、ソ連によるイラクのクルド人への支援もイラク政府を刺激した。1978年エジプト・イスラエル平和協定や1979年イラン革命など激動の中東情勢のなかで、1979年7月、11年間の長期政権を維持した大統領バクルが健康上の理由で引退、後任には実質上実権を握ってきたサダム・フセイン革命評議会副議長が就任した。以降、共和制のかたちをとりながらも、実質は大統領フセインの独裁体制が強化されていった。, 1980年9月、革命後の混乱にあるイランとの間で、国境問題に端を発したイラン・イラク戦争が勃発(ぼっぱつ)した。戦争は長期化し、双方多大なる人的・物的損害を出して、1988年8月に停戦に至った。また、1990年8月にはイラク軍がクウェートに侵攻した。これに対して国連安全保障理事会はただちに対イラク経済制裁、クウェート併合無効を決議した。1991年1月17日、アメリカを主体とする多国籍軍による湾岸戦争が始まり、ハイテク兵器の攻撃によってイラク軍は潰走(かいそう)、26日にクウェートは解放された。4月11日、停戦が成立。戦後、イラク北部のクルド人自治区には、クルド人を保護すべくイラク軍の飛行禁止空域を定めて「安全地帯」が設置された。しかし、1996年8月にはクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)との対立から、KDPの支援要請を受けてイラク軍がクルド人自治区に侵攻した。直後に、アメリカが武力行使を決定、イラクの防空施設に計44発の巡航ミサイルを打ち込み、イラク軍は数日で撤退した。また、湾岸戦争後の経済封鎖によって国内経済・産業は壊滅的な打撃を受け、治安も極度に悪化。1996年12月にはフセインの長男ウダイが襲撃される暗殺未遂事件が起こった。2002年には大量破壊兵器をめぐる国連査察が再開されるなどしたが、フセインは非協力的な態度をとり続け、国際的に孤立していく。2003年3月アメリカの最後通告に対してフセインは亡命を拒否、同月20日アメリカ・イギリス軍のイラク攻撃によりイラク戦争が始まった。同年4月には、アメリカ・イギリス両軍が首都バグダードをはじめとするイラク国内の主要都市を制圧、フセイン政権は崩壊し、フセインもまた12月にアメリカ軍に拘束された。, 2003年4月のフセイン政権崩壊後、イラク全土は、アメリカ・イギリスによる連合国暫定当局(CPA)の占領統治に入った。同年7月イラク人よりなるイラク統治評議会が誕生したが、占領統治体制の最高決定機関はCPAであった。その後、2004年6月1日に、国連、CPA、統治評議会の協議により、評議会メンバーのなかからアヤド・アラウィが首相に、ガジ・アジル・ヤワルが大統領に就任、閣僚も決まり、イラク暫定政権が発足(統治評議会は解散)。同年6月28日には、CPAからイラク暫定政権への主権移譲がなされた。同時にCPAは解散し、ここにアメリカ・イギリスの占領統治は終了するが、アメリカ・イギリスを中心とする多国籍軍は暫定政権からの要請を受ける形をとって駐留し続けていた。2005年1月、国民議会選挙が行われた結果、イスラム教シーア派勢力が勝利し議席の過半数を占める。同年4月、国民議会は、イラク移行政府の大統領としてクルド人指導者(クルド愛国同盟議長)のジャラル・タラバニJalal Talabaniを選出、タラバニは大統領に就任し、シーア派のイブラヒム・ジャファリIbrahim Jafariを首相に指名、移行政府が発足した。, 2005年10月には国民投票によって新憲法が承認された。同年12月には新憲法に基づく国民議会選挙が実施され、2006年4月に国民議会で改めて議長および大統領の選出、大統領による首相指名が行われ、同年5月にイラク新政府が発足した。議会は一院制で議席数は275。そのうち230は州ごとの比例代表制、45は少数派を優先した全国区の比例代表制で選ばれる。任期は4年。議会で選出される大統領の任期も連動して4年である。元首は大統領であるが、首相が行政権を握り、国軍の最高司令官を兼ねている。地方行政は首都バグダードやクルド人自治区3州を含む18州で構成され、2009年1月に14州において地方議会選挙が行われた。, フセイン政権崩壊後、治安対策や復興支援活動のためイラクに駐留していた多国籍軍は2008年末の国連安全保障理事会決議の期限切れを機に各国部隊が撤退を進めた。また、2009年1月にはイラク、アメリカ間で有効期間3年の地位協定が発効した。この地位協定には2011年末までに駐留アメリカ軍をイラク全域から撤退させること、2009年6月末までにイラク治安部隊が各州で治安権限を回復するのに合わせて都市部や村からアメリカ戦闘部隊を撤収、アメリカ軍側が任務外で重大な罪を犯した場合はイラク側が第一次裁判権をもつこと等が盛り込まれている。この協定に基づきアメリカ軍は2009年6月に都市部からの撤退を完了した。軍、警察などイラク治安部隊の兵力数は約36万。そのうちイラク軍は陸軍16万3500、海軍1100、空軍1200(2008)となっている。, 2004年7月、フセインと旧政権幹部を裁く特別法廷が開廷し、2005年10月にはフセインの初公判が開かれた。本人は罪状認否で無罪を主張したが、2006年11月イラク高等法廷(特別法廷から改称)は人道に対する罪でフセインに死刑(絞首刑)判決を下した。同年12月26日には死刑が確定、同30日に刑が執行された。審理中の案件を残した刑執行には旧政権を握っていたイスラム教スンニー派をはじめ国際社会からも疑問視する声があがった。イラク国内は2003年5月にブッシュが大規模戦闘の終了を宣言した後も混乱が続きテロが頻発、一時は内戦状態となり200万人を超えるイラク難民が発生した。, イラクは1958年の共和制革命以来、基本的には社会主義化を進めながらも、経済分野では政経分離によって西側諸国との協調を推進した。しかしながら、1990年のイラク軍のクウェート侵攻以来、国連による経済封鎖が続き、2003年のイラク戦争によりイラク経済は壊滅的打撃を受けた。これにより、イラク国内の経済生活や工業生産はきわめて厳しい状況にある。なお、1996年12月には経済制裁が部分的に解除され、食料と医療品の購入という人道目的に限定して、半年で20億ドル分の石油輸出が再開されている。, 湾岸戦争以前には世界第5位の原油生産量(1989)を誇っていたイラク経済は、まさに石油に依存していた。この状況は国際社会への復帰後も変わらないものと推測される。財政収入に占める割合は、石油が圧倒的に多く、85%に及んでいる。1972年から1975年にかけてイラク石油会社IPC(イギリス、アメリカ、オランダ、フランス資本)およびその関連会社を国有化した政府は、積極的な石油政策に取り組んだ。新油田の探査、開発や、キルクーク、アイン・ザラハ、ズベールなど主要油田の拡張プロジェクトを推進した。こうした開発努力の結果、1975年当時240万バレル(日産)であったイラクの産油量は、1979年前半に330万バレルを記録した。大幅な増産と、1979年に入ってからの石油輸出国機構(OPEC(オペック))による原油価格の値上げで、石油収入は増加の一途をたどった。, 農業部門の就業人口は全就業者の7.9%(2005)にすぎない。国土面積の半分以上を不毛地が占め、耕地面積は13%(2000)にとどまる。しかも天水耕作が可能な土地は年降水量が400ミリメートルを超える北部の山岳地帯だけである。主要な農業地帯であるメソポタミア平原では灌漑(かんがい)に頼っている。土地生産性は低くその向上のためさまざまな努力が払われている。1958年から農地改革が実施され、その過程で集団農場化、機械化が推進された。ダム建設、灌漑施設の整備、新農地開拓、品種改良などの農業開発も盛んである。しかし農業部門は開発投資の効果が現れるのが遅く、一方で消費需要の増大に伴い、農産物輸入は増え続けている。主要な冬作物は小麦、大麦、亜麻(あま)、豆類で、夏作物は米、綿花、タバコ、トウモロコシ、キビ、野菜などである。ティグリス、ユーフラテス両川下流域ではナツメヤシが栽培され、その生産量は世界有数である。近年の穀物生産量は1996年の約300万トンから2000年の約80万トンに激減している。1998年から2年連続で干ばつが発生したことと、経済制裁により、農業機械、肥料など生産資材の確保がむずかしくなったことが原因と考えられる。, 製造業の就業者に占める比率は17.5%(1990)程度で、イラク経済の主要部門になるというところまでは達してしない。食品加工、織物、れんが製造、製革などの伝統産業に加えて、セメント、石油精製、石油化学、鉄鋼、機械など近代工業もおこった。とくにオイル・ブーム後の1970年代なかばから政府は積極的に工業化に取り組んだ。その結果、石油精製工業の伸びはずば抜けて高く、食品工業、非金属建材工業なども急増した。, 経済開発は王制以来数次にわたる五か年計画が作成されたが、絶えざる政変で計画の中断や遅れが目だった。1981年から1985年までの第五次五か年計画も実質的に実行されなかった。その後の経済計画は湾岸戦争、イラク戦争などによって混乱している。, イラク戦争以前の貿易は、石油(原油と石油製品)が全輸出の99%を占めていた。輸出先はアメリカ、ブラジル、トルコ、日本の順(1989)に多かったが、2001年の輸出先はアメリカ、イタリア、フランス、スペインの順となった。おもな輸入品は機械類、輸送機械、穀類、鉄鋼、繊維品であったが、経済開発ブームで、それまでの消費財から、鉄、非鉄金属品や機械など中間材、投資材に重点が移っていった。1989年の輸入相手国は、アメリカ、ドイツ、イギリス、日本、フランス、トルコと続き、貿易収支は24億7700万ドルの黒字であった。しかし、経済制裁が課せられたため貿易は限定されており、2001年の輸入相手国はアメリカ、オーストラリア、中国、イタリア、ヨルダンの順で、おもな輸入品は食料品、医療品、消費財であった。新政府発足から1年を経た2007年(速報値)の国内総生産(GDP)は624億ドル、1人当り国内総生産は2109ドルとなった。イラクの石油埋蔵量は1150億バレル(2007)で世界3位。平均産油量は日量215万バレル(2007)となり、2008年には日量231万バレルを記録し、生産、輸出ともイラク戦争直前を上回るようになった。, 住民は多くの民族からなっているが、アラブ人が全体の80%近くを占めている。少数民族のなかではクルド人がもっとも多く、総人口の約20%近くを占める。北西のクルディスターン地方に主として居住し、イラン、トルコ、シリアにまたがるペルシア系住民である。民族も言語もアラブ人とは異なり、自治権を要求して長い間中央政府と対立してきた。このほかに北イラクのトルコ人、中央部のイラン人をはじめ、トルクメン人、アッシリア人、アルメニア人、ヤジーディ人、シャバーク人、サバ人、ユダヤ人などが居住している。, 言語は公用語であるアラビア語がもっとも広く話されている。しかし北部ではクルド語とトルコ語のほうが一般的で、アッシリア語、アルメニア語、ペルシア語の方言も東部の部族の間で話されている。, 宗教もイラク住民を分ける重要な要素である。総人口の95%以上がイスラム教徒であり、スンニー派とシーア派にほぼ二分される。スンニー派はバグダードやバスラの市民をはじめとするアラブ人やクルド人、シーア派はその聖地カルバラ周辺のアラブ人やイラン人などで全人口のほぼ60%を占める。キリスト教徒はネストリウス派、グレゴリウス派、ギリシア正教、アルメニア正教など、各派あわせて20万以上いると推定される。そのほか若干のユダヤ教徒もいる。, 首都のバグダード、バスラ、モスルの三大都市をはじめとして各都市は急速に発展し近代化が進んだ。しかし2003年のイラク戦争により、大きな被害を受けた。農村地域では、住民の住居は日干しれんがを積み上げたもので、電気も水道もない暮らしが普通である。娯楽といえば露天の喫茶店に集まり、トルコ・コーヒーなどをすすりながら会話を楽しむぐらいなもので、こうした単調な生活を破るようにイスラム教の祭礼や結婚式などが盛大に行われる。, 教育制度は1970年代に大きく前進し、1974~1975年、小学校から大学までの教育の全過程での無料化と、私立学校の廃止と公立化が決定された。さらに6~12歳の初等教育が義務教育となっていたが、これを中等教育まで3年間延長することが検討されていた。こうした政府の積極的な施策によって国民の識字率は上がり、2000年には74.2%(男84.1%、女64.2%)となった。, しかし、イラク戦争はこの国の教育にも大きな被害をもたらした。2004年のイラク政府調査によると700校以上が空爆によって破壊され、3000校以上が略奪の被害にあった。そのためイラク全土の学校で椅子(いす)、机をはじめ基本的な学用品の不足に陥っている。初等教育には430万人が登録されているが、推定80万人以上が通学していないとする、イギリスのNGOの報告もある。, 世界最古の文明が栄えたこの国には遺跡、古建築が多い。メソポタミア南部、ユーフラテス川流域にはウル、エリドゥ、ウルクなどのシュメール古代遺跡、バグダードの南にはバビロニア、新バビロニアの首都として栄華を誇ったバビロンの遺跡もある。これらの遺跡の数々の出土品はバグダードのイラク博物館に所蔵されている。バビロニア帝国ののちに興ったアッシリア帝国の舞台はティグリス川の上流、北部イラクであった。その代表的遺跡は北部の中心地モスル近郊のニネベとニルムード、そして南約60キロメートルのアッシュールの城壁や宮殿跡である。アッシリア帝国崩壊後、移住してきたベドウィンによってつくられたハトラの町の遺跡はアッシュールの南にある。ササン朝ペルシアの冬の首都クテシフォンはバグダードの南東約30キロメートルの地点にあり、古代遺跡中最大のアーチをもつ王宮跡が残っている。, 新バビロニア帝国滅亡以来、ペルシアに文化の中心を奪われたメソポタミアは、8世紀バグダードを中心とするアッバース朝文化が花開いた。バグダードやその北120キロメートルのサマッラーには王宮跡、モスク、モスクの尖塔(せんとう)、螺旋(らせん)状尖塔などがある。こうした古代文化の遺跡は政府の考古文化局の管轄下にあり、発掘、調査、研究が進められている。イスラム教シーア派の始祖アリーとその息子フセインの墓所のあるナジャフとカルバラーのモスクは単なる遺跡にとどまらず、いまも聖地として信徒の厚い信仰を集めている。なお、イラン・イラク戦争、湾岸戦争以前は、イラン、パキスタンなど諸外国からも巡礼者が多数訪れていた。, 1964年(昭和39)に日本イラク貿易協定が調印され対日輸入制限が撤廃された。1974年8月には経済協力協定が締結され、日本が20億ドルの借款を供与する見返りに、イラクから10年間に原油9000万トン、石油製品7000万トンの安定供給を受けることになった。以来日本とイラクの経済関係は急速に深まり、1977年度には輸入依存度に占める日本の比重は20%で第1位となった。しかし、その後日本の比重は低下し、1989年度の対日輸出は、アメリカ、ブラジル、トルコに次いで4番目で8%であった。またイラクの日本に対する輸入依存度は5%であった。2007年の対日輸出は10億1800万ドル、輸入は1億2000万ドルとなっている。, 経済以外の分野でも協力関係が深まった。1978年3月には、日本イラク文化協会が設立され、日本イラク航空協定が調印された。これによりイラク航空の東京乗り入れ、日本航空南回りヨーロッパ線の一部および中東線のバグダード寄航が実現した。湾岸戦争以前は、政治家、文化・スポーツ団体、遺跡発掘隊の派遣など幅広い交流が行われ、イラクの経済開発計画に関連して、日系企業が多くのプロジェクトに参加した。しかしながら、湾岸危機以降、日本はイラクに対する経済制裁を実施し、1991年には在イラク日本大使館を閉鎖した。湾岸戦争の前後で、日本とイラクの関係は大きく変わったが、1999年以降、国会議員や外務省局長クラスのイラク訪問が行われ、対話は閉ざされなかった。湾岸戦争以前に約1900億円に達していた対イラク経済協力は停止したが、国際機関を通じた人道援助は継続された。しかし、2003年のイラク戦争では、日本は米英を支持する立場をとった。外交関係は維持するが、外交官の常駐は行わず関係事務は在ヨルダン日本大使館で扱う、という状況が続いたが、イラク戦争の大規模戦闘が終結した2003年5月、閉鎖していた在イラク日本大使館を再開。ところが同年11月、イラク北部のティクリートで日本人外交官2名(奥克彦参事官、井ノ上正盛書記官)と、同行した現地職員1名が襲撃を受け、死亡するという事件が発生した。一方、政府は2003年12月に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」に基づく対応措置に関する基本計画を決定。国連安保理決議1483号の要請にこたえ、イラクに自衛隊を派遣することとし、2004年、イラク南部のサマーワに断続的に計約550名の部隊を送った。しかし、イラクの治安は悪化の一途をたどり、過激派武装勢力による外国人拉致(らち)および殺害が相次いでいる。2004年5月には、バグダード近郊で日本人フリージャーナリスト2名(橋田信介、小川功太郎)と同行のイラク人通訳1名が襲撃・殺害された。また同年10月には、バグダードを訪れた民間人1名(香田証生(こうだしょうせい))が、イスラム原理主義テロ組織、アルカイダ系とされる組織に拉致・殺害され、イラク戦争開戦後に犠牲となった日本人は5名となった。その後、治安維持権限が多国籍軍からイラク側に移譲されるに伴い、2006年に陸上自衛隊が撤収。2008年12月には航空自衛隊が撤収を開始(完全撤収は2009年2月)して自衛隊によるイラク復興支援活動は終了した。, 『『世界文化地理大系11 西アジア』(1955・平凡社)』▽『『世界地理風俗大系12 西アジア』(1964・誠文堂新光社)』▽『前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社)』▽『『文化誌 世界の国6 イラン・イラク・アラビア』(1974・講談社)』▽『岩永博編『イラク――その国土と市場』(1978・科学出版社)』▽『マロワン著、杉勇訳『メソポタミアとイラン』(1978・創元社)』▽『『世界の民族15 中央アジア・西アジア』(1979・平凡社)』▽『水口章著『イラクという国』(1993・岩波ブックレット)』▽『メアリー・M・ロジャース著、東真理子訳『目で見る世界の国々60 イラク』(2002・国土社)』▽『国末憲人著『イラク戦争の深淵――権力が崩壊するとき、2002~2004年』(2007・草思社)』▽『小倉孝保著『戦争と民衆――イラクで何が起きたのか』(2008・毎日新聞社)』▽『高橋英彦著『イラク歴史紀行――チグリス・ユーフラテス物語』(NHKブックス)』▽『小玉新治郎著『西アジアの歴史』(講談社現代新書)』▽『酒井啓子著『イラクとアメリカ』(岩波新書)』▽『岸谷美穂著『イラクの戦場で学んだこと』(岩波ジュニア新書)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …もっとも,その発生過程,そこでの土地経営形態は,水資源の存在・管理形態,農業の集約度,商品作物の浸透度,中央権力のあり方,遊牧民社会の影響等々の自然・社会・経済・歴史的環境の違いによって,ともすれば一括して論じられることの多いアラブ地域内においても,相当な変異が見られた。 シリア,パレスティナ,イラク地方については,その多くの地域において,直接耕作者はムシャーmushā‘と呼ばれる,ある種の土地割替を伴う共同体的耕作慣行のもとで土地耕作にあたり,その上に,徴税請負権を中心とした地方有力者,遊牧民首長など,いわば領主階層の諸権利が重ね合わされていた。19世紀に入り商品作物栽培の普及,近代的土地所有観念の導入と相まって,特定の階層への土地集積現象が見られたが,その過程はおおむね,それまでの旧領主階層が近代的大地主として,共同体的慣行のもとで土地耕作にあたっていた直接耕作者をまるごと小作人あるいは農業労働者として再組織するという過程であった。….
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2020年12月4日
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