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アメリカ兵 遺体

Troops and the Mutilation of Japanese War Dead, 1941 – 1945” Pacific Historical Review (1992) p.59, 日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)頭蓋骨は一体につき35ドルで販売されていた, 日本人の頭部で遊んでいるマクファーソン中尉。アメリカ海軍魚雷艇341の甲板にて。(1944年4月30日ニューギニア), http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3651/is_199510/ai_n8714274/pg_1, Xavier Guillaume, "A Heterology of American GIs during World War II", “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance”, http://www.science.ulster.ac.uk/psyri/profiles/s_harrison/documents/skulltrophies.pdf, All text is available under the terms of the. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 06:25 UTC 版), 太平洋戦争において連合国軍は少なからず人種差別的表現をもちいており、アメリカ合衆国においては「戦闘員と民間人の区別をつけず日本人を皆殺しにせよ」と主張する者も多かった[4]。日本兵を人間扱いせず、動物として描くこともあった[5]。アメリカ軍人向け雑誌には、海兵隊の志願兵に「日本兵狩猟許可証」を「無料の弾薬と装備と給料」で出すと宣伝した[5]。また具体的な事例として、アメリカ海軍の代表的指揮官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ」をスローガンとしており、艦隊宛の通信文は「やつらを死なせ続けろ」と結ばれていた[4]。チェスター・ニミッツ提督宛の私信でも「もっと猿の肉を確保する」ための潜水艦の活動を提案した[4]。ハルゼーは新聞記者達に対して、日本を占領した暁には日本人女性全員に不妊手術を施すべきだと冗談まじりに語り、また昭和天皇の処刑もほのめかした[6]。日本側はこれらの言動を察知して、プロパガンダに利用した[7]。, ハルゼーの発言は冗談めいていたが、戦場では連合軍兵士による残虐行為が実際に行われていた。 神風特別攻撃隊を攻撃を受けたアメリカ軍人は、「カミカゼクレイジー」「デビルズバード」「バードオブヘル」「ゾンビ」「カッツェンジャマー・キッド(酔っぱらい小僧)」と呼び恐れた。, 特攻が開始される1944年後半のフィリピン戦前の時点では、それまでの太平洋戦域における日米航空戦の戦績により、アメリカ軍の日本軍航空部隊や搭乗員に対する評価は地に落ちており、アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」とされていた。, 連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥も、日本軍パイロットは未熟で訓練不足と認識しており、それがマリアナ沖海戦の勝因だったと分析し、マリアナ沖海戦でアメリカ軍艦隊を率いた第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将も、日本軍パイロットはアメリカ軍パイロットの敵ではなく、アメリカ軍は日本軍航空部隊の攻撃を打ち砕いたと評価していた。, ソロモン諸島やニューギニアで日本軍航空隊と戦ってきた、マッカーサー元帥の指揮下の第5空軍司令のジョージ・ケニー中将などは「日本国民のあまりに多くの人々が、水稲稲作者・漁師・車夫といった農民階級で、彼等はあまりにも愚鈍、余りに考え方がのろくて、機械的な知識や適応性に全く欠けている」とし、戦闘機パイロットになる素質を持った日本人はアメリカ人と比較して遥かに少ないと、人種偏見に満ち日本軍を侮った報告をアメリカ陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド元帥に送っている。, その後にフィリピン戦で特攻が開始され、アメリカ軍に大きな損害が生じると、ニミッツは「特攻隊パイロットの飛行技術の明白な改善は、日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた。」と日本軍搭乗員の技術を再評価し、今後の戦況への不安を口にするほどであった。, アメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ少将は「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾(フィリピン戦)での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」と日本軍航空隊の操縦技術に対するこれまでの低評価に異議を唱え、また「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない。」と今後の戦局を予想し、その予想通り沖縄戦でアメリカ海軍は第二次世界大戦最大の損害を被ることになった。, またアメリカの諜報機関Office of Strategic Services(略称OSS、CIAの前身)も「日本人には視力障害があるから良いパイロットになれないという意見があるが、これは間違っている。日本人は高高度飛行ができないという意見も正しくない。(中略)日本軍パイロットが優秀な飛行技術を身に着けているということは、特攻パイロットたちが、厚木や鹿屋で受ける訓練形式によって証明されている。」と分析している。, 終戦後に調査したアメリカ軍は「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」や「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。」という見解を報告している。, 1945年7月2日ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した。, 軍や軍高官が戦術としての特攻の手ごわさについて評価する一方で、第一線のアメリカ兵の多くが、自らの西欧的価値観からは信じがたい、他人を殺すために自らも死ぬといった戦術である特攻について「不可解」や「非人間的」や「狂信的」という印象を抱き、日本兵に対する憎しみや偏見を募らせていた。, 第一線の兵士は特攻機に対し、「カミカゼクレイジー」「デビルズバード」「バードオブヘル」「ゾンビ」「カッツェンジャマー・キッド(酔っぱらい小僧)」等思いつく限りの蔑称や禍々しいあだ名を付けていた。, 特攻機との戦闘後には、アメリカ軍艦艇上には特攻機の部品や特攻隊員の遺体の一部が散乱していたが、海軍の水兵は「日本のおみやげ」と称し、機体の部品や特攻隊員の遺品を拾い回った。, 軽巡洋艦モントピリアの水兵の1人は、本国の妹が欲しがっているとのことで、特攻隊員の肋骨を持ち帰っている。, モントピリアの水兵ジェームズ・J・フェーイーは艦に散乱している特攻隊員の遺体を見て、特攻隊員がアメリカやアメリカ軍艦艇と一緒に自分自身も滅ぼしたがっていると感じ、日本軍を意気阻喪させたり、あきらめさせたりするのは無理で、ヨーロッパ戦線での連合軍空軍によるドイツ本土に対する戦略爆撃なんて、アメリカ海軍が特攻隊相手にやっていることに比べたらたわいのないもので、ドイツも頑張っているが日本ほどではないという思いを抱いている。, しかし軍隊における自己犠牲の精神はアメリカやドイツといった西欧諸国でも万国共通であり、特攻に近いような行為もしばしば行われていた。, その為、特攻隊員を称賛するアメリカ兵もおり、1945年4月11日に戦艦ミズーリに特攻し戦死した石野節雄二飛曹について、ミズーリの艦長であるウィリアム・キャラハン大佐(第三次ソロモン海戦で戦死したダニエル・J・キャラハン少将の弟)は「祖国の為に命を投げうってその使命を敢行した勇敢な男には、名誉ある水葬をもって臨むべきである。死した兵士はもはや敵ではない。翌朝、勇者の葬儀を執り行う」と石野二飛曹を称賛し、異例とも言える敵兵の水葬を行っている。, その際わざわざミズーリの水兵が手作りで作った旭日旗で石野二飛曹の遺体を覆い、礼砲まで撃って礼を尽くしている。, 連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥は、レイテ沖海戦での大勝利を第二次世界大戦でのトラファルガーの海戦と評価し、叩きのめされた日本海軍は、まともに戦えなくなったと判断していたが、その勝利ムードに冷や水を浴びせたのが特攻となった。, フィリピン戦での特攻での損害を見て「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と特攻が大きな脅威になったと述懐している。, また、ニミッツの太平洋艦隊広報はこの後沖縄戦後に至るまで、特攻に関するニュースを全て検閲していた。, 逆に大和を撃沈した際は大々的に広報し、戦意高揚のために陸軍記念日の演説で全部隊に放送している。, 沖縄戦でも、沖縄近海で特攻により激増する損害を懸念したニミッツは、日本軍の固い防衛線に苦戦し、中々進軍できない沖縄方面連合軍最高指揮官の第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将の作戦に苛立ちを覚え、指揮を混乱させかねないため現場の指揮には一切口を出さないと言う自らの不文律を犯して、作戦指導への介入のために4月23日に沖縄にてバックナーと会談している。, そこでニミッツはバックナーに「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させるぞ。」と、異例とも言える更迭を匂わせての早急な進撃を促している。, 結局この時ニミッツはサイパンの戦いでの「スミスVSスミス」事件での陸海軍海兵隊3軍対立の二の舞いを恐れて強権は発動しなかったが、この後も陸軍の進撃速度は上がらず、予定の3倍の90日にも及んだ沖縄戦で海軍が特攻で受けた損害は莫大なものとなった。, しかし、沖縄戦末期の6月上旬ごろには、日本軍の本土決戦準備による戦力温存もあって、特攻による損害も減少し「神風特攻の脅威を自信をもってはね返すとこまで来ていた」と胸を張っていたが、その要因として「カミカゼの方では、最後の突入から戻ってきてその体験を報告するパイロットがいなくなったために、改善の基礎となるデータを発展させることができなかった。」と分析していた, 沖縄戦が終わると「我が海軍が(沖縄戦で)被った損害は、大戦中のどの海戦よりもはるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。この損害は主に日本の航空攻撃とくに特攻攻撃によるものであった。」と沖縄戦での特攻を総括している。, フィリピンと沖縄で特攻に多数の艦船を奪われたニミッツらアメリカ海軍指導部は、日本本土への侵攻作戦において、多数の特攻を受け、莫大な損失を出すことを恐れ悲観的な予測に傾いていた。, ニミッツは海軍作戦部長キングに「日本を侵攻する場合は、われわれは甚大な被害を受け入れる覚悟をしなければなりません。食料状態が悪く、ろくに補給も受けていない日本軍はわれわれの圧倒的な空と陸からの行動でうちのめされましたが、その成功も、敵の通信経路が短く、敵の物資がより豊富な日本本土で直面する抵抗を推しはかるただひとつの基準としては使えないでしょう」という報告書を提出している。, アメリカ軍全体でも、日本本土決戦になっていた場合の想定として「オリンピック作戦(九州上陸作戦)に対抗して、九州防衛のための特攻機が準備され、これより規模の小さい準備がジッパー作戦に対抗してシンガポール防衛のためになされた。これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。」と特攻により大損害を被るという予測をしていた。, しかし、ダウンフォール作戦は開始されることなく、日本のポツダム宣言の受諾により戦争は終結し、太平洋戦争後に母校アメリカ海軍大学で講演したニミッツは「日本との戦争において起きたほとんどのことは、この教室(War Gaming Department)において多くの学生らにより想定されており驚くことはなかったが、唯一大戦末期のカミカゼだけが予測できなかった」と述べている。, 海軍以外でもダグラス・マッカーサー元帥は、フィリピン戦で特攻の猛威を目のあたりにすると「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と指摘している。, その後の沖縄戦では、「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」と沖縄戦での特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、軽巡洋艦ボイシ座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。, 雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。, マッカーサー配下の第七艦隊の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。, フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した ― 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。, またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。, フランスのジャーナリストのベルナール・ミローは著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は…無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。, 且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。, 一方で、フランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授のモーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する」という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している。, 2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。, これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)のようだ」と報道されたものである。, 実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。, これに対し日本国内では、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論も生じた。, しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」という意識がなお根強く、またミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。, また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところではアメリカ軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃(, じゅうたんばくげき)、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。, さらには当の武装勢力(含むテロ組織)のタミル・イーラム解放のトラやハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来ることがある。, テロと神風特攻隊と一緒にされるのは断じて違うことを世界に知って欲しいことではあるね。. 硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。, 1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定を検討した。同年12月20日にフィリピンのレイテ島(後にレイテ島の戦いが生起)に上陸、翌1945年2月20日にはルソン島(後にルソン島の戦いが生起)もしくは3月1日に台湾上陸との作戦計画を立案したが、台湾の代わりにその北にある沖縄諸島を攻略するかはこの時点では決定されていなかった。しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部では既に1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。, 日本海軍がレイテ沖海戦の結果として大規模な艦隊作戦能力を失ったため、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していた。このため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。その中、陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(後の沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった[2]。, これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。, いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。, 硫黄島は、日本の首都東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島の小笠原村(旧硫黄島村)に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km2程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。, 日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として、小笠原諸島で唯一飛行場にできる平地のある硫黄島の戦略的重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。, 1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、トラック島へ大規模空襲を行い、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力を粉砕した(トラック島空襲)。日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。中でも飛行場のある硫黄島が米軍の攻撃目標となることは明らかであった。そこで陸軍は本島を重要防衛地域とし、守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。, 1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し(マリアナ・パラオ諸島の戦い)、11月以降、従来は中国大陸から行っていたB-29爆撃機による日本本土への長距離爆撃をマリアナ諸島から開始した(日本本土空襲)。しかし、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張って無線電信で報告する、早期警戒システムにおける防空監視拠点として機能していた。特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。これにより、日本軍は本土上空で戦闘機をB-29迎撃に向かわせることができた。また、B-29のマリアナ諸島からの出撃では飛行距離が片道約2,000kmと長距離であるため護衛戦闘機が随伴できず、さらに日本上空で損傷を受けたり、故障したり、航法ミスを起こしたりしたB-29がマリアナ諸島までたどり着けず、海上に墜落や不時着水することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機・四式重爆撃機「飛龍」や「銀河」、一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にある飛行場を急襲し、地上で駐機中のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った第一御楯特別攻撃隊の機銃掃射によって、サイパン島のイスレイフィールド、アスリート両飛行場で11機のB-29が破壊され、8機が大きな損害を受けた。, などを目的として、硫黄島の占領を決定した[3]。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定され、一連の進攻作戦は「デタッチメント作戦」と命名された。, 硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、1944年6月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した。(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した(硫黄島に混成第2旅団、父島に混成第1旅団、母島に混成第1連隊を配置)。, しかし栗林中将は、サイパン島の戦いにおける戦訓報において水際での防御戦闘が制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことを承知していた。このため、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をし、防衛計画の第一歩として軍人・軍属を除く民間人全員の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。, 同年6月26日、海軍のあ号作戦の失敗に伴って、サイパン島奪回が不能となり、これらの戦力として準備された歩兵第146連隊と戦車第26連隊の運用に支障が生じたため、小笠原方面への増強の必要性を大本営が判断し、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は栗林中将(第109師団長)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては新たに増強された同守備隊唯一の歩兵連隊(他の歩兵戦力は既存の独立歩兵大隊)である歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄陸軍大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されていた。, ペリリューの戦いにおいて、中川州男陸軍大佐の日本陸軍守備隊は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、栗林中将はこの戦術をさらに発展させた。1944年6月8日の栗林中将硫黄島着任前は、タラワの戦いやマキンの戦い、サイパンの戦いなどで行われた、一般的なバンザイ突撃のための陣地構築が進められていたが、同月20日には中将はそれを無意味かつ貴重な資材や時間の無駄な浪費として撤回させた。代わりに、内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を基本方針(後退配備)とし、23日には陸軍の伊支隊は後方陣地構築に転換した。しかしながら、これに対して同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊および大本営海軍部)から極めて強硬な批判が起こり(水際陣地および飛行場周囲へのトーチカ群の構築を進言等)、陸軍側(栗林中将)が譲歩する形で一部の水際・飛行場陣地構築を約束することとなる(海軍提供資材をもって陸軍が構築協力。栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、水際・飛行場陣地用海軍提供資材の半分を後方・地下陣地構築に転用している)。なお、海軍が要求したこれらの水際・飛行場陣地はアメリカ軍の砲爆撃によって、わずか十数機の海軍機・飛行場機能ともども早々に壊滅した反面、陸軍の地下陣地は耐え抜いて活用されている。, 栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。飲用となる清水の入手方法が雨水程度のため、将兵は塩辛く硫黄臭のする井戸水に頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされた。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「汗の一滴は血の一滴」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した[4]。, 坑道は深い所では地下12mから20m以上(硫黄島で遺骨収用の際、実際に確認されている。)、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。, 栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。, 硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。, 1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした[5]。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。, 日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した。, 次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった。, 中でも帝国陸軍の新兵器・ロケット砲(噴進砲)である、四式二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)および、緒戦の南方作戦(シンガポールの戦い等)から実戦投入され、大威力を発揮していたスピガット・モーター(差込型迫撃砲)である九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、航空爆弾に相当する大威力をもつと同時に発射台が簡易構造なことから、迅速に放列布置が可能で、発射後はすぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた(また、この噴進砲・臼砲は独特かつ大きな飛翔音を発するため友軍および敵軍に対する心理的効果も備えていた)。, これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する砲兵火力(師団砲兵)の4倍に達しており、また特筆する点として重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲等)や加農(九二式十糎加農・八九式十五糎加農等)といった長射程の重砲ではなく、輸送や操砲が容易で面積が狭い硫黄島での運用に適し、隠匿性に優れる迫撃砲・ロケット砲が集中運用されていることが挙げられる[注 5]。これらの火砲は海空からの支援や補給が絶望的な日本軍守備隊の貴重な大火力であり、また比較的小口径の対戦車砲や野砲も地形を生かした放列布置により多数の戦車・装甲車を撃破するなど、実戦で特に活躍することとなる。しかしながら、海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行った結果、火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。, さらに、北満駐屯の後に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山へ移動していた戦車第26連隊が、硫黄島へ配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「コビア」の雷撃によって撃沈された。この時の連隊の戦死者は2名だけだったが、戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともに全て海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。硫黄島に前後するサイパン島、ルソン島、占守島等の戦いと異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であった。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。, アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している。, 栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた[7])。栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった。, 火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。, だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った[8]。, 1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。, また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。, 特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。, さらに陣地防御と持久戦を重要視した実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(膽兵の「膽」とは第109師団の兵団文字符)。, 防御準備の最後の数か月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台の自動貨車および2台のブルドーザーを投入し、飛行場をわずか12時間後に再び使用可能とした。飛行場確保に固執する海軍の要請により飛ばす飛行機も無いのに行われた飛行場修復を、のちに栗林中将は戦訓電報で批判している。, 1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島が間もなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団・艦隊を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。, なお、硫黄島守備隊は映像(ニュース映画)である日本ニュースで2回報道されている。「第246号」(「戦雲迫る硫黄島」2分36秒。他3本。1945年2月20日公開)では、2月16日頃にアメリカ軍が行った硫黄島空襲に対し迎撃や対空戦闘を行う海軍部隊の様子が。「第247号」(「硫黄島」3分14秒。他2本。3月8日公開)では、硫黄島神社に揃って参拝する陸海両軍の軍人・木枝から滴る水を瓶で集めての飲料水化・地熱と温泉を利用する飯盒炊爨など、硫黄島における将兵の日常生活、また一〇〇式火焔発射機による火焔攻撃、戦車第26連隊の九七式中戦車改や九五式軽戦車を仮想敵とした肉薄攻撃など、戦闘訓練の模様が撮影されていると同時に、「前線指揮所に、敵必殺の策を練る我が最高指揮官、栗林陸軍中将」とのナレーションのもとわずか数秒足らずではあるものの、両ラペルに中将襟章(昭18制)を付した開襟シャツ姿の栗林中将の鮮明な映像が収められている。, 1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍最高指揮官には第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将指揮)、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された。, 上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった[注 6]。第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いやグアムの戦いですでにその名を知られていたが、1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本兵の掃討作戦に従事していた。上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26海兵連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された。, 東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3kmの海岸があり、アメリカ軍はこれを500yd (457.2m) ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名付けた。, 第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側に当たるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた。, 1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟している。」。アメリカ軍は、島や洞窟に潜む日本兵を殲滅し、アメリカ兵の被害を少なくするためには毒ガスの使用が最も効果的との結論を得ていたが(毒ガス禁止のジュネーヴ議定書に当時の日米は署名をしていたが、批准はしていなかった)、統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒ海軍元帥から反対する意見具申もあって、国際的非難を顧慮したフランクリン・ルーズベルト大統領は許可しなかった。, マリアナから第7空軍のB-24が上陸準備として74日間の連続爆撃を行ったが、水平爆撃ではピンポイント攻撃は不能であり、資材運搬の日本軍の二等輸送艦を数隻(参加した全て)撃沈できたのみで日本軍陣地へのダメージは少ないと判断された。そこで、海兵隊は10日以上の準備艦砲射撃を要請したが、海軍側は沖縄上陸作戦などの事後の作戦の都合から、準備砲爆撃の期間を3日間に短縮した。, アメリカ海軍は、硫黄島と日本本土との交通遮断の作戦のため空母部隊での日本本土空襲を行う予定であったが、参加予定の米新鋭空母艦隊は2月中旬までは補給ができず、しかも、沖縄上陸戦開始への日程が迫っていた。B-29の戦略爆撃の支援のための硫黄島攻略に、主作戦の日本本土上陸への足がかりの沖縄戦への戦力を削ってまで、硫黄島への兵力を投入はできないという判断であった。これは上陸後の海兵隊の苦戦の一因とされている。, そして、2月16-17日、アメリカの高速空母機動部隊は硫黄島上陸の前哨戦ともいえる日本本土の攻撃を、艦載機によって2日間にわたって行い、航空施設を攻撃し、40機程度の日本機を撃墜した(ジャンボリー作戦)。この攻撃で日本側の注意を硫黄島上陸作戦からそらし得たと判断したアメリカ軍は、硫黄島上陸作戦を開始した。, 1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に艦砲砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で、各受け持ち地区を砲撃した。そして、これに付随した護衛空母の艦載機は弾着観測と個別陣地の撃破を行なった。通常弾はほとんど効果がないことから、ロケット弾が多用されるにいたった。効果ありと判断したアメリカ軍は、海岸偵察部隊の砲艇は、フロッグマン約100名を乗せた12隻の上陸用舟艇を東岸に移動させた。これを、米軍の本格的上陸の第1波と誤認した海軍南砲台および摺鉢山砲台は、舟艇を砲撃して9隻を行動不能にし、3隻が大破した。この攻撃により重砲陣地の場所を知ったアメリカ軍は、摺鉢山の海岸砲陣地に対して戦艦ネバダより艦砲射撃を行い[注 9]、摺鉢山の主要な水平砲台はほぼ戦力を失った[注 10]。この際、あるアメリカ兵が「俺達用の日本兵は残っているのか?」と、戦友に尋ねたというエピソードがある[10]。しかし、偵察機ではうかがい知れないその答えを、海兵隊員は上陸後、身をもって知ることになる。, 17日、機雷や暗礁などの障害物を調査するため、掃海艇と武装舟艇 (LCI(G)) が東海岸に接近した。さらに、LCI(G) に乗っていたアメリカ海軍水中爆破処理隊 (UDT) は東海岸へ一時上陸し、上述の上陸地点を示す小旗を砂浜に立てて撤収した。この際、上陸用舟艇 (LCI) を改装した LCI(G) の接近を見た日本軍は本格的な迎撃を行ったため、アメリカ側のさらに激しい砲爆撃を招いている。, 19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による重爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されている)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。柔らかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたためたちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出し、M4 シャーマン中戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が撃破された。これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がなかった。硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕(蛸壺)を掘ることもできなかった。また高波を受けて、上陸用舟艇や水陸両用車が転覆や衝突によって損傷した。各地に上陸した誘導隊の努力にもかかわらず、海岸には舟艇や車輌があふれて後続部隊の上陸を妨げた。やっとの思いで揚陸した戦車も日本軍高射砲の水平射撃によって撃破された。19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。, 夕方までに海兵隊30,000名が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ではあるが、突進して西海岸に到達する将兵も現れた。海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えたが、日本兵は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃であり、アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の一部がこの攻撃により炎上し損害を受けた。しかし、それも海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本兵が徐々に増えていった。この夜襲は日本軍にとっても死傷率の高い作戦であり、所属部隊が全滅後に他の隊と合流した将兵や、陸戦に慣れていない海軍兵が主に指名された[11]。, 2月20日、準備砲爆撃の後、第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と島の中央部に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断された。摺鉢山の日本軍は摺鉢山地区隊(独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊など)が守備にあたっており、その斜面は1mごとが戦闘の連続だった。砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進し、日本軍では摺鉢山守備隊長の厚地兼彦陸軍大佐が戦死した。市丸海軍少将は「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ」という報告を大本営へ打電している。, 21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸した。同日、千葉県香取航空基地から出撃した爆撃機「彗星」12機、攻撃機「天山」8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給した後に硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、千葉県木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔をまいてレーダーを攪乱(かくらん)した。御楯隊は艦隊の混乱に乗じ、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破炎上させ、護衛空母ルンガ・ポイントと貨物船ケーカックに損害与えるなどの戦果を挙げた(この光景は硫黄島守備隊にも目撃されている)。艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む」と発信。その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。その後も、日本軍は陸軍航空部隊の四式重爆撃機「飛龍」や、海軍航空部隊の陸攻による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施している。, また回天特別攻撃隊千早隊(伊44、伊368、伊370)が編成され、2月20~22日に出撃したが戦果は確認されておらず、伊368と伊370が未帰還となった。, アメリカ軍の被害について(翌22日公式発表)「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、ワシントンの一部新聞が硫黄島での毒ガス攻撃を呼びかけるほど、本国では硫黄島戦における苦戦が衝撃的であった。, 22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。, 23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28×54インチ(約71×137センチ)の星条旗を掲揚した(本記事冒頭の写真)。硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたホーランド・スミス海兵中将に「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな。」[12]と語り、この旗を記念品として保存するように望んだ。そこで、揚陸艇の乗員が提供した先の旗の2倍もある5×8フィート(約152×244センチ)の星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった。午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」瞬間を捉えたかのような(実は後撮り)写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。硫黄島の戦いは「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示したのだった。しかしその4日後のサンフランシスコでは「(タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに)マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていない」と海軍批判の社説が掲載された。, アメリカ軍はようやく攻撃開始7日目に擂鉢山山頂を制圧したが、擂鉢山付近での散発的な日本軍の抵抗はまだ継続していた。硫黄島に派遣された経験を持つ秋草鶴次によると、24日の早朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っているのを、玉名山から目撃したという[13]。『十七歳の硫黄島』では、その後、擂鉢山へアメリカ軍のロケット砲攻撃があり、再び星条旗が掲げ直され、その星条旗は24日中そのまま掲げられていたが、翌25日早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗がはためいていたため、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ていたのではないか、と秋草は推測して書いている。その以降の戦闘の後、アメリカ軍によってもう一度星条旗が掲げられ、それが日章旗に代わることはもうなかったという。, フォレスタル海軍長官はアメリカ本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。前進速度は10m/h。市丸少将はアメリカ軍の戦術を「さながら害虫駆除のごとし。」[14]と報告している。摺鉢山を攻略したアメリカ軍は3個師団全力で島北部への攻撃に移り、日本軍は戦車第26連隊を投入するも、2月26日夕刻、元山飛行場は陥落した。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。, 同日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された千島飛行場が修復されて観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機「ダイナ・マイト」号が、両軍砲火の中で緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受けた。これが、硫黄島に不時着した最初のB-29である。, 元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団は元々練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練の下で強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。, 3月7日、栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を発する。名義は膽部隊長(第109師団長栗林)で、宛先は参謀次長(参謀本部:大本営陸軍部)と、栗林中将の陸軍大学校時代の兵学教官である恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)であった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度」「以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ 何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル」)。, 後の作戦立案などに生かすため参謀本部(大本営陸軍部)に送る戦訓電報を、畑違いである蓮沼侍従武官長にも宛てた理由としては、栗林中将が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したためであり[15]、また、栗林中将が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、栗林中将が陸大学生時代に蓮沼教官から教わったものを基本としていることによる(「硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ」)。, 特に海軍側の数多い大失態の例として以上の3例があり、以下の「膽参電第三五一号」の原文の太字は陣地構築および戦闘中における海軍の不手際や無能・無策の批判となる。なお、栗林中将はこのように海軍側および中央を猛烈に批判しているが、栗林中将自体は軍人を目指す弟に対し陸士ではなく海兵受験を薦めるなど海軍嫌いというわけではない。, 水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻って来なかった。3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼した。, 南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる[16][17]。, 17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績を認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)、同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は[18]

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2020年12月4日